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ハカタウツシ

加布里山笠
博多は中世以来、商都として多くの人々を惹きつけて栄えてきた。その華やかな都市の文化は、周辺の町や村に影響を与え、博多を模範とした祭やしきたりといった文化を生み出した。北部九州ではこの現象をハカタウツシと呼んでいる。このハカタウツシは北部九州一帯で百カ所以上みられる。
加布里は江戸時代から海運で栄えてきて、町割りもどことなく博多に似ており、中小路、洲が崎等、博多を連想させる町名も残っている。またハカタウツシを最もあらわしている行事が山笠である。加布里の山笠は江戸時代におこった大火災と疫病流行を機に寛延3年(1750)に始められたものである。
復活時の飾り山笠 加布里天満宮の絵馬 大正時代の加布里山笠
その形は博多と同じ「岩組山」だが、高さが10mを越える車輪のついた曳き山になっている。人形や飾りは現在では、地元の人形師が製作しているが、かつては博多の人形師が加布里にやってきて作っていた。小島輿一、原田嘉平という有名な博多人形師が描いた山笠絵馬が加布里天満宮に奉納されているのもそのことを伝えている。
又加布里の山笠は博多山笠に影響を与えた。加布里の山笠には必ず牡丹の花の作りものが飾られた。それは花びら一枚々を緻密に作られたものだった。
昭和初期の加布里山笠 昭和初期の山笠法被 復活時の加布里山笠の様子

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